関内イノベーションイニシアティブ(以下、Kii)から新企画のトークイベント「スパイシー談義」がはじまりました!
このイベントでは弊社の治田が自身の切り口で“いまお話を伺ってみたい人”をゲストにお迎えして本音トークを繰り広げます。
企画が決まったのは、今年春に熱海でおこなった合宿。
ついにその第1回目を実施することができました。
スタッフ一同がドキドキ・ワクワクしながら迎えた第1回目は、台東デザイナーズビレッジ村長の鈴木淳さんをゲストにお招きしました。
当日は、前半にトークゲストの鈴木さんからご自身の事業についてプレゼンいただき、後半から治田との対談を行いました。
今回のゲストスピーカー
株式会社ソーシャルデザイン研究所 代表取締役
鈴木淳さん
1990年鐘紡入社 ファッション関係の商品企画やマーケティングを担当。 1999年独立、ユニバーサルファッション協会を設立、 障害者高齢者衣料の啓蒙に取り組む。 2004年より台東区立の創業支援施設「台東デザイナーズビレッジ」(デザビレ)村長を受託。 15年で100組以上のクリエイターを育て、卒業企業が地元に定着し注目される。 2015年「イッサイガッサイ東東京モノづくりHUB」を 立ち上げ、東東京に創業者を増やす様々な支援活動を実施。 2019年著書「自分を動かす スイッチの入れ方」発行。
いったい、どんなトークが展開されたのか….
当日のレポートをお届けします。
・「口下手でもやる気のある人を支援したい」――デザビレ一回目の失敗から
・スカイツリー開業時にイベント開催で3日間で10万人来場。東東京に賑わいが
・障害者向けの服っていうのを作ると嫌がられる。当事者の意識を考えることからはじまるものづくり
・「いい商品を作れば売れる」ではなく、「ファンを増やす」がビジネスの原則クリエイターが発信するべきこと
・鈴木村長と考える横浜の未来 文脈の違う支援者たちで手をつなぐ
・次回の予告
「口下手でもやる気のある人を支援したい」
――デザビレ一回目の失敗から
鈴木さんがユニバーサルファッション協会を立ち上げたのは、カネボウファッション研究所にいた頃に拘束服のデザインを頼まれたことがきっかけ。
そこで芽生えたファッション業界への問題意識から業界でも一番大きいNPOに育てていき、ある程度仕事を人に任せるようになったときにちょうど出会ったのが、デザイナーズビレッジ(以下、デザビレ)でした。急遽コンペに参加をし、マネージャーに抜擢されます。
デザビレはファッションや雑貨、デザイン関連ビジネス分野での起業を目指すデザイナーやクリエイターを支援する施設。いまでこそ、創業支援施設の成功例として紹介されることが多いですが、1年目からうまくいったわけではありませんでした。
設立当時は「小学校の廃校を利用した家賃の安いアトリエ」という宣伝と、一人10分という限られた時間と情報による審査が行われていました。その結果、クリエイターとして成長意欲が高い人というよりは、家賃の安いアトリエを求める人が多く集まりました。
一方で、区役所からはその人たちの売り上げを伸ばすことを求められます。
しっかりと成果を出すためにも、覚悟を決め、取り組もうとしたときに鈴木さんが3年後の次の募集時に向けて変えたことは、「やる気がある人」が集まる仕組みをつくることでした。それは、デザビレの知名度を高くすること。
「安いアトリエ」ではなく、「成長したい人が活用する施設」だとメッセージを変えました。
3年間かけ、メディアへの露出をできるようになり、2回目の募集では、15室に対して全国から90組の応募が来たんだそう。
そして「10分の面接審査会では情報をキャッチしきれない」とのことで、口下手でもやる気のある人を見つけ出そうと、1時間ずつ70人の面接をしました。
結果、この時に入った人たちが、後々ファッション業界で活躍することになり、デザビレの知名度をさらに高めることになりました。
スカイツリー開業時にイベント開催で3日間で10万人来場。東東京に賑わいが
クリエイターを育てる傍ら、鈴木さんはデザビレで毎年一回文化祭のように地域に開いたイベントを開催します。
そこから広げて地元のお店や企業をめぐるウォークラリーを企画していましたが、東日本大震災が起こり、イベント自粛の流れになったことで中止になりかけたそうです。
しかし、翌年にはスカイツリー開業を控えている。東東京に注目が集まる絶好のチャンスであるその時期までには名前が知られていなければいけない。そう考えた鈴木さんはなんとか周りに働きかけ仲間とお金を集めイベント開催にこぎつけました。
その結果、「30年ぶりにこんなに人を一杯見た」と言われるくらい、当日は普段はいない若者も含めた沢山の人が賑わったそうです。
そしてさらに地域の人と仲良くなり、仲間を増やし、2回目、3回目と続けていった鈴木さん。ついには、スカイツリーが開業した週末に開催した3回目にはなんと3日間で来場者延べ10万人という大成功を収め、「東東京を盛り上げたい」という鈴木さんの想いが叶った形となりました。
障害者向けの服っていうのを作ると嫌がられる。
当事者の意識を考えることからはじまるものづくり
治田 鈴木さんありがとうございました。先日、初めて事前のヒアリングということでデザビレにお伺いしたんですけれども。いろんなところにちょっと驚きまして。
まずは鈴木さん、村長さんとお呼びしたらいいのかな、物静かな方にお見受けするじゃないですか。でも結構熱いんですよね。
鈴木さん 熱いというよりは、腹が立つとね(笑)
治田 静かな闘志というか、そんなものを感じさせられました。
ここから少し話を掘り下げていきたいと思います。ユニバーサルファッション協会での取り組みというのが、個人的な怒りとかもありつつも、やはり業界としてユニバーサルデザインを持ってきたというか、そこに対して何か掘り起こしていかなきゃいけないっていうところから始まってると思うんですけど。
それとクリエイターの支援というものが近しいものがあったんだよってお話が私は印象的だったんですが、そのあたりもう少しお話いただいてもよいですか。
鈴木さん まだカネボウに勤めていた時に、介護服という、痴呆症の高齢者に着せる服なんですね、施設の中で。
痴呆症の高齢者に、排泄のためにオムツをさせる。それでオムツの中にうんちおしっこをすると気持ち悪いから、それを剥がす。剥がして壁に擦り付けたりすると、不潔行為って言ってたんですけど、それをやめさせるためにツナギ服を着せて、ファスナーの取っ手を取っちゃう。
そうするとどこからも触れなくなります。そういう服が施設介護の中では結構使われていたんですね。
それが在宅介護に移るタイミングで、そんな状況だったら家族がかわいそうだからおしゃれな服にしてくれっていうことを頼まれたんです。そこからいろいろ施設を回って調査をしていくと、困ってる人がこんなにいるのねっていう現実が見えてきました。
で、一緒にボランティア活動なんかもしていて。例えば車椅子の方で服に困ってる人がいます。そこにお直しができる人がいると1対1でお直しをするみたいな、そういう服のリフォームボランティア。
これは、調べてみると他の地域でも、同じように困ってる人がいて同じように直す人いて。その中で完結してしまっているので、その状況が外に広まっていかないので、結局困ってる人がいることが表に出てこない。
つまり、困ってる人がいるということをを聞く場所がないのでその状況を何とかしなきゃいけないよねって思ったんですよ。個別のボランティア活動しててもらちが明かない。
体型のこと、介護のこと、障害のこと、色々あって困ってる人のことを伝える役割が誰もいないので、やんなきゃいけないなと思った。それでユニバーサルファッション協会のNPOを立ち上げるわけなんですけど。
治田 そこがきっかけだったんですね。
鈴木さん そうです。で、じつは結構ですね、車椅子用の服を作ってる所とか、全国にすでにあったんですよ。でも全然表に出てきてないんです。
身の回りの人が事故でとかいろんなことで困ったから作ってみましたよっていうところがポツポツあちこちにいるのに全然売れない。困ってる人に来てもらってすごく喜ぶ、でも売れない。なんだこれはっていう感じ。
当時はネット社会ではなかったので告知をする方法が全くなく、どうやってお客さんを見つけてつながるかっていう手法がないのがまず問題だった。もう一つは、障害者向けの服っていうのを作ると当事者が嫌がる。障害者のユニフォームになっちゃうから着たくないっていう問題があって。
やっぱお客さんが着て欲しいと思うものを提供しなきゃいけないってことは、障害者服を作っちゃだめだと。普通の服を着られるようにしなくちゃいけないんだ、っていうことで当事者の意識をすごい考えるようになっていきました。
治田 そこですよね。何か課題があったときに調査をするとか、人の話を聞くとか、買って欲しくなるようにはどうしたらいいのかも含めて多分聞かれてたと思うんだけど。そのユニバーサルファッション協会のお仕事も結構調査活動が中心だったかと思います。
鈴木さん ファッション業界にアピールする時に、困ってる人が一人いますよって言っても誰も話を聞いてくれないんですよ。
なので一番最初は障害持った人たちや介護が必要な人たち100人にアンケートを実施するところからスタートして。また数年後に500人規模に人数増やして調査をして。
最初、20年ぐらい前、障害のある人が自分の体のことを人に知られたくないからアンケートを嫌だって言って集めるだけでも大変だったところから始まり、なんとか一定数を集められるようになって。業界にアピールできる材料を持ってちゃんと説明していき、聞いてくれるところがだいぶ増えてきました。
「いい商品を作れば売れる」ではなく、「ファンを増やす」がビジネスの原則
クリエイターが発信するべきこと
治田 次にデザビレで数々のデザイナーやクリエイターを支援されてきて、今感じていることについてもお聞きしたいです。
鈴木さん クリエイターは、まずは最初お小遣い稼ぎみたいなところから始まることが多いです。入口のハードルは低いんですよ。かつ周りの友達がいいねって言ってほめてくれたり買ってくれたりするもんですから、本当に最初の売り上げが年間10万とか20万の時は気持ちよく仕事ができてる、というか趣味の世界でできるんですね。
そこから年間100万円売ろうと思うと結構大変になってきてですね。一人で作ってハンドメイドマーケットで売って、週末に月1回ぐらい手作り市に出店すると年間売り上げが100万から150万ぐらいですかね。で、製造原価とかコスト考えると、ほぼプラマイゼロというか、マイナスになっている場合があるんで、これではたべていけないんですね。
そこから色んな店に卸す、百貨店とか色んなお店にいって自分で売るっていうのをやって。何も勉強せずになんとかやってると、200万から300万くらいで限界がやってくるように思います。。そこからさらに大体500万でまた壁がやってきます。
最初の壁というのは、ビジネスの方法を知らないので、見てくれた人には買ってもらえるけど、そこから先にお客さんが広がらないという課題があります。次の500万の壁っていうのは作って売ってをやって物理的に作れる時間の限界の壁が一人でやっていると500万くらいの時にきます。そこから外注さん、工場、職人さんに仕事をお願いして外で作ってもらえるようになって、そこからさらにスタッフを雇っていくとあとは売り上げはどんどん伸ばすことができます。
治田 なるほど。
鈴木さん 仕事の仕方と売る方法で売上の規模感が大体決まっていくっていうところがあって。それぞれのステージでビジネスの基本を学ばなきゃいけない時期、商品の見せ方を学ばなきゃいけない時期、営業の仕方を学ぶ、で売り上げがどんどん上がってくと忙しくなりすぎるので工場の職人と付き合い方を覚えて生産をの仕方を変える時期、スタッフを雇ってスタッフを育てなきゃいけないみたいなステージがありますね。
それぞれのステージごとにアドバイスしています。
治田 それを一気通貫で一人で行ってらっしゃるそうですね。
鈴木さん 個別でやっていたのを起業塾というスタイルに変えたのがここ数年です。個人ごとにヒアリングしてアドバイスをしているんですけど、アドバイスをしても理解できない、原理原則を知らないから良いことだけ言われても納得できないと動かないんですね。
なので、どうしてこの仕事が必要なのかっていう理論をまず教えてあげるところから伝えるということで起業塾を始めましてね。
何やってるかっていうと、ものづくりする人の多くは「いい商品」を作れば売れると思うんですよ。
けれど、「買ってくれる人が商品を気に入ってくれなきゃ売れないよね」「買ってくれる人が気に入って欲しいって言ってくれなきゃお金もらえないよね」っていうのが原則なんです。
さきに買ってくれる人がいるって事を忘れてしまって、材料どうしよう、コストどうしよう、値段どうしようということばかり気にして、ずっとモノを見て考えて、自分の気持ちとモノの形とをいったりきたりするんですね。その結果、めっちゃ悩む割に、この商品自体を見つけてくれる人がいないので売れないってなる。
これは僕自身ががユニバーサルファッション協会時代にやってたことと同じなんです。喜ばれる服ができてるのに、買ってくれる人がいない。ちょっと広めれば欲しいっていう人を見つけられるのに、なんで売れないだと悩んでいた。それと全く同じことをクリエイターがやってたんですね。
だからクリエイターとしてビジネスをすることは「いい商品を作ること」だけではなくて、「ファンを増やしていくこと」がビジネスのルールなんですね。いろいろと視点を間違ってるからいい商品も売れないんだよ、っていうところから伝えています。
ファンを増やすためには自分がなにをやってるかっていうのをちゃんと発信しなくちゃいけない。いい商品を作ったとアピールする前に、私が何者でっていうことをまず伝えなきゃいけない。
特にビジネスのルールとかやり方って誰からも教わらないんですよ、特にファッション業界って偏っていて。企画をしてCMを打てばある程度売れるみたいなやり方をしてるんですね、そうすると小さい規模でやっているクリエイターもそれを真似るんですよ。
クリエイターとしてきちんと食べていけている人たちは、どうやってバイヤーさんと関係性を作ろうとか、バイヤーさんの仕事を減らそうとかね、自分のお客さんに届けるためにはどのお店がいいんだろうとか、ちゃんとお客さんとの関係づくりまで考えてやってるんです。
結局ものを作ってるだけで終わらせて社会と繋がってないクリエイターの多くも、社会性というか社会の仕組みから伝えてあげたら一気に行く。そこをちゃんと伝えたい。
鈴木村長と考える横浜の未来
文脈の違う支援者たちで手をつなぐ
治田 いま横浜のクリエイター支援だったりとかを見守っていただく中で横浜のでの可能性みたいなものってどう感じていらっしゃるのか。
もしあるとすれば、どういうことをしていくといいのかっていうのを是非教えていただきたいんですけど。
鈴木さん 横浜トリエンナーレがあって、全国から見てやっぱりアートの街だっていう印象がありますし、職住が密接していて海も近くて環境も良くて、住むのにもいいなと。東京の下町からするとですね、理想的な美しい環境がある街だなと思ってるんですよ。
ただ、ポテンシャルが高いにもかかわらず一人一人の顔が見えないアーティスト、クリエイターが多いという印象は持ってます。
えー、何でしょう。無理から集積をしてみたものの、仕事するときは東京へ向かってるのかなっていう印象。やっぱり役所の方もミニ東京モデルを意識しているのかなっていう印象を受けている気がします。
クリエイターを集めたはいいけど活かす仕組みを持ってない、それから稼げるようにしようとは思ってないなと思ったんですよ。
治田 それが目標値になってないってことですよね。
鈴木さん 以前、横浜で4年間ある委員を担当したんですが、やっぱり指導するポイントがクリエイターが稼いでいく事を意識してないプログラムになっていて。本気で稼ごうと思ったらここにいないで東京へ行かなきゃいけないなと思われるんじゃないかなっていうのが当時の印象でした。
治田 今もそんなに変わってなくて、ただ鈴木さんの話をうかがっていると、一人一人のクリエイターが稼ぐっていうところに対しては台東区もお金を出してるわけじゃないじゃないですか。おそらく鈴木さんがそこを担ってらっしゃるんですよね。いろんな資源をかき集めて。
だから、そこの部分はすごく自由にできているように思っていて、むしろ横浜はそこのところにお金を出しているので、逆に自由にできなくて、そのお金をどう消化することが仕事になっている。次の稼ぐとこまで行ってないのかなという印象があります。
鈴木さん そういう気がしますね。
あと横浜市にはいろんな施設があるんですけど、全部独自運営してるんですね。それでみんな困ってんですよ、横のつながりがないんで。
治田 そうね、確かにそうです。
私たちもそういう状況で、ここmass×massは、横浜市都市整備局のモデル事業で立ち上がっていて、事業としては経済局さんとも繋がってるんですけど、結局他のところは文化観光局だったりとか。縦割りのところに民間が押し込まれちゃってるんです。
なので、文脈の違う支援者たちが横に手をつなぐっていうのはありなのかなと思う。
鈴木さん 僕でも、言ったらデザイナーズビレッジの運営だけでもいっぱいいっぱいなんですよ。他のところと連携する余力ないんですけど、一人で運営するのは限界っていうか。ノウハウもたまらないし相談相手もいないし、孤独に段々なってくんですよ。
治田 なので私はこのイベントをやっているんですよ。
鈴木さん だから多分一緒なんですよね、でもそれぞれの施設が頑張ってるんだったらそれをつないだりコーディネートする誰かがいないことにはせっかく頑張って培ってきたノウハウが他の施設にいかされないんですね。
治田さんがmass×massで若手のビジネスマンを育ててきたノウハウが本当はアート界にも注入されないと、こっちの人も稼げないと思うんですよ。
治田 私だってそこまで稼げてるわけじゃないんで(笑)
私が鈴木村長のすごいなって思うのは、ちゃんと社会から、評価を受けるクリエイターを育ててらっしゃるという実績があって。私は、なかなかそれを数値化出来るとこまで行ってないのでそこの所でちょっともう少し色々教えていただいたりしたいなって思った次第でございます。
なるほど、すごくいろんな意味でヒント頂きました。
鈴木村長さんありがとうございました。
text mayu setogawa
edit/photo hiroyuki horigome
次回の予告
次回「治田友香のスパイシー談義」のゲストはオンデザインパートナーズの西田司さんです。
オンデザインパートナーズに関心がある方、行政、企業、NPO、ソーシャルビジネス事業者などセクターワイドまたはクロスバリューなプロジェクトに関心がある方はぜひご参加ください!
何回つづくかわかりませんけど、続けて行きたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。皆さんありがとうございました。